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宮尾登美子の『天璋院篤姫』と鹿児島
鶴丸城跡の石垣と堀
 目 次
 宮尾登美子の『天璋院篤姫』がNHKの大河ドラマ化
 篤姫の実家の今和泉島津家と今和泉郷の領主仮屋
 宮尾登美子の『天璋院篤姫』に描かれた今和泉の桜島
 西郷隆盛が斉彬から篤姫への密書の届役!?
 篤姫から西郷隆盛への嘆願書
 篤姫の略年譜
 小説『天璋院篤姫』を読んで
宮尾登美子『天璋院篤姫』
講談社文庫、1987年11月
宮尾登美子の『天璋院篤姫』がNHKの大河ドラマ化

 みなさんは天璋院という人物をご存知ですか。永井路子は、『歴史をさわがせた女たち 日本編』(文春文庫、2003年6月)で、徳川の将軍夫人というものは、当時においては「あとつぎ製作所」としてしか見られておらず、彼女たちの中に「トップレディーとして語るにたる風格をもつ女性はほとんどいない」としながらも、「その中で、なかなか個性的なのは十三代将軍家定夫人の天璋院である」としています。

 天璋院は、薩摩の島津家の分家の島津忠剛の娘として生まれましたが、藩主の斉彬の養女となった後に将軍家に輿入れしています。しかし夫の家定は病弱で、結婚して2年目に死んでしまいます。その後の将軍職は紀州藩主の家茂が継ぎ、彼は「公武合体」のために皇女和宮と結婚するのですが、天璋院はこの和宮との間に複雑な政治情勢を反映させた嫁と姑の冷戦を繰り広げることになります。

 こんな天璋院にさらに幕府崩壊、江戸城あけわたしという最大のピンチが襲って来ます。攻めてきたのは彼女の実家の薩摩の軍隊だったのですが、彼女は「徳川の人間」として最後まで城にとどまり、いよいよ立ち退くときは身のまわり調度家具類を一切運び出さなかったそうです。そして、維新後は徳川宗家の当主となった弱年の家達のためにあれこれ面倒を見続けたそうです。そんな天璋院を永井路子はつぎのように評しています。

 
「幕府の崩壊期にあたって、彼女はみごとに、殿軍(しんがり)をつとめおおせた。古来攻めるよりは守るほうがむずかしく、中でも敗けいくさの殿軍をつとめることがもっともむずかしいとされている。女ながらもこの役割を完全にはたした天璋院は、歴史の中の守備型女性のナンバー・ワンといえるかもしれない。」

 そんな天璋院について、NHKが2006年8月1日にNHKの大河ドラマ「篤姫」の主人公として2008年1月から放映することを発表しました。原作は1984年9月に講談社からに出版された宮尾登美子の『天璋院篤姫』とのことで、鹿児島ではこの「篤姫」効果によって観光客の増加が大いに期待されています。なぜなら、この天璋院篤姫は、前述しましたように薩摩の島津家の分家の島津忠剛の娘として生まれており、鹿児島とは大いにゆかりがあるからです。なお、鹿児島市大竜町にある大龍小学校(大龍寺跡地)の西隣にいまも彼女の生家である今和泉島津家の石壁が残っています。

  そのため、地元紙の「南日本新聞」を見ていますと、JR九州の石原進社長が「鹿児島中央駅-指宿駅間に観光特急を走らせることを検討している」、「鹿児島市役所のみなと大通り別館の電車通り沿いの外壁に、天璋院篤姫を紹介する看板が設置」、「維新ふるさと館で『天璋院篤姫と大奥の世界』と題した無料歴史講座も開催」、さらには鹿児島県が篤姫関連の観光事業費として、「ゆかりのある指宿市今和泉地区などの整備調査などに約1億8500万円を投入」といった記事が目に入って来ます。また、同新聞には、尚古集成館副館長の松尾千歳氏が2007年1月27日から5回に渡って「薩摩から大奥へ 天璋院篤姫の生涯」が連載されました。


篤姫の実家の今和泉島津家と今和泉郷の領主仮屋

 鹿児島県の中で、指宿市今和泉地区も篤姫ゆかりの地とされています。なぜなら、篤姫の実家が1万1千石の今和泉島津家で、同家は揖宿郡今和泉郷をその一所地として私領していたからです。『指宿市誌』(指宿市、1985年10月)の321頁には、「今和泉が一所地(いっしょち)として成立したのは。延享元年(一七四四)十二月薩摩藩主継豊の時代で、継豊の弟忠郷(吉貴の七男三次郎)をもって和泉家を再興し、今和泉と号し、一門に加え、一所地を給わらせた事に始まる」とあります。なお、一所地とは藩主一門などの上級家臣が支配している私領のことをいいます。

 また、日本歴史地理体系第47巻の『鹿児島県の地名』(平凡社、1998年7月)の「今和泉郷」についての解説には、今和泉島津氏の「領主仮屋は岩本村の海岸近く、現在の今和泉小学校の敷地にあった」としています。

 なお、薩摩藩は領内を113の「郷」に分割し、藩の直轄郷には「地頭仮屋」、私領には「領主仮屋」を設け、その周囲に外城衆中(郷士)を配置し、郷士は農耕で自活するという「外城」の制度を取っていました。現在の今和泉小学校の敷地はそんな外城の「領主仮屋」の跡のようですね。それで、芳即正『薩摩七十七万石』(鹿児島県歴史資料センター黎明館、1991年)で「外城制度」と「領主仮屋」について調べてみることにしました。

 同書によりますと、「徳川幕府は元和元年(1615)年一国一城令をだした。そのため薩摩藩でも鹿児島城下以外の城、すなわち外城はすべて廃止した。城構えは取りこわしたが、藩士は旧来の外城の麓にそのまま居住させ、藩士をすべて鹿児島城下に集めることをしなかった。中世と同じように郷村に居住し兵農一致の生活を送らせたのである、かれらを外城衆中といい、国分衆・鹿児島衆などと居住地名をつけて呼んだ」としています。

 そして、そんな外城には「藩の直轄領」と「一所地の私領」の2種類があったそうで、「直轄領では外城行政の責任者としては藩主名代の地頭が任命されていた。初め私領主も地頭もその外城に居住していたが、寛永年間以降両者とも鹿児島定府となった。この遙任の地頭を掛持地頭といって任期中一回その外城を巡視するだけであった。私領主も同じく一代に一回巡視した。だから外城にある仮屋というのは鹿児島にある領主・地頭の屋敷に対して、外城にある仮の屋敷という意味であろう」としています。そのため、外城(後に「郷」と呼称)での「行政は重要事項を除き、所三役や役人などに任されました」とのことです。

 しかし、『指宿市誌』の322頁には、「今和泉島津氏の館は本館は、城下(大磯館後に四館)にあったが、宝暦四年(一七五四)別館を岩本村に増築し此処に居住した」と書いてあります。宮尾登美子の『天璋院篤姫』にも、篤姫が今和泉で過ごした岩本村(今和泉)の屋敷のことを「別邸」と呼称しており、篤姫の父親である忠剛が病床に伏したときには、「輿に揺られて岩本村の別邸におもむき、こちらでしばらく静養することになった」と書いています。

 そうしますと、今和泉郷には行政のための「領主仮屋」とともに静養のための「別邸」が別に存在していたのでしょうか。あるいは今和泉郷だけには「領主仮屋」の敷地内に領主やその家族が暮らせる「別邸」が付設されていたのでしょうか。

 うーん、篤姫個人と今和泉の領主仮屋との関係は史料的に確認できないとして、では今和泉島津家の当主やその家族がここを別邸として使っていた可能性はあるのでしょうか。そのことがとても気になりましたので、南九州の中世史とくに中世城郭研究の第一人者である三木靖氏とお会いする機会があったとき、この疑問についてお訊きすることにしました。三木靖氏の著作には『薩摩島津氏』 (新人物往来社、1972年)もあり、島津家のことについてはお詳しいと思ったからです。そうしましたら、ありがたいことにつぎのようなことを教えて下さいました。

 今和泉島津家は、島津藩の中でも一門四家と呼ばれて特別待遇を受けていた家柄であり、他の私領主と違って鹿児島城下の本宅以外に私領地に別邸を持つことが許され、今和泉だけでなく磯にも別邸を持っていた。今和泉にある今和泉島津家の別邸は、また外城の行政を司る役所としての機能も果たしていた。

 そうしますと、篤姫が子ども時代、今和泉の別邸で多くの時間を過ごしていた可能性は大いに有り得ますね。なお、島津家の一門四家とは重富、加治木、垂水、今和泉のことを指しており、もし島津家藩主に嗣子がいないときはこの四家から藩主が選ばれることになっていました。
寺尾美保著『天璋院篤姫』

 なお、2007年6月になって新たに出版されました寺尾美保著『天璋院篤姫』(高城書房、200年6月)によると、「二〇〇八年のNHK大河ドラマが決まってから、篤姫の幼少期を彷彿とさせる史料を探して欲しいという依頼をたくさん受けるのだが、残念ながら今のところ皆無である」としています。ただ、篤姫が生まれた場所については、『源姓嫡流今和泉家系図』に「府第に於いて生まれ」とあるとし、彼女が鹿児島城下で生まれたとしています。ただし、今和泉家には篤姫が生まれた当時、鹿児島城下につぎの5つの屋敷があったと思われるそうです。

 上屋敷(現鹿児島市大竜町)、下屋敷(同市清水町)、下屋敷(同市浜町にあり「鶴江崎屋敷」「浜屋敷」ともいう)、下屋敷(同市清水町にあり「田之浦邸」ともいう、下屋敷(同市清水町)

 また、同書は領地の今和泉にも屋敷があったとしていますが、「篤姫が日常をどこで暮らしていたかについての記述は、『嫡流系図』にもなく現時点では不明であるが、状況から考えれば、城下の上屋敷を基本の住まいとし、鶴江崎などの下屋敷や、領地にも必要に応じて訪れたと思われる。領地の今和泉には、上屋敷・下屋敷のいずれからも舟で行くことができるので、比較的往復しやすい距離であったと推測される」としています。


宮尾登美子の『天璋院篤姫』に描かれた今和泉の桜島

 宮尾登美子のこの『天璋院篤姫』という時代小説には、篤姫の懐かしい故郷の思い出の場所として、今和泉島津家の別邸があった岩本村(現在の指宿市岩本)の風景がよく出てきます。例えば、文久3(1863)年9月に篤姫が江戸城本丸から二の丸に移ったその夜、彼女は岩本村の別邸をつぎのように思い出しています(講談社文庫版下巻、190頁)。

 
「その夜、篤姫は松籟の音に容易に眠られず、輾展と寝返りを打ちながら、久しぶりに故郷薩摩の、それも鶴丸城ではなく、今和泉家の岩本村の別邸を目に浮かべた。
 石段を下りると、波が着物の裾のようにゆるやかに寄せたり返したりしている浜辺で、兄妹や侍女たちと遊んでいた光景、沖には白帆が浮かび、その向うには桜島の噴煙がたなびいてのどかな一日が暮れると、邸うちでは本邸では食べられぬ野趣に富んだ料理が出され、それを兄妹そろって賑やかに食べるときの楽しかったこと。」


 また、篤姫が晩年になって、縁側に坐っていて、半ば夢うつつの中、岩本村の今和泉家の別邸に彼女がいま居る様に感じている場面もつぎのように描かれています(講談社文庫版下巻、334頁)。

 
「夢ともうつつともなく、いま自分が坐っている場所は今和泉家のあの岩本村の別邸のような感じに浸っていることもあり、妹の於才が、/『あれ姉上さま、今日の桜島をごらん遊ばしませ。煙草をた〈さんに、ぷかぷかとふかしております』/という声も聞えてくる。/ 桜島のご機嫌のよい日は、煙草はほんの一服、いかにも気持よさそうにまっすぐに煙を立たせるだけだが、少し斜めのときにはもくもくと噴き、そして怒れば目の前が霞むくらいの灰を降らせるのを、いまなつかしく思い起しているのであった。」

 これら岩本村の今和泉家の別邸から篤姫が眺めたという桜島の風景描写を読んでいて、私にはある疑問が生じてきました。今和泉家の別邸があった岩本村は、現在の指宿市今和泉地区ですが、標高1117mの桜島の山頂からほぼ南方34km離れています。そのような桜島が今和泉からどのように見えるのだろうかということでした。

 鹿児島市内に住む人間にとっては、桜島はどこにいてもその雄大な姿が自然と目に入ってくる存在です。ですから、もし鹿児島を離れたときに瞼に浮かぶ風景のなかに桜島の姿が必ず存在していると思います。では、篤姫が子どもの頃によく今和泉の別邸で過ごすことが多かったとして、指宿の今和泉から宮尾登美子の小説に描かれたように桜島がよく見えるのでしょうか。また、懐かしい故郷の風景を回想するとき、自然とその姿を思い浮かべるような存在なのでしょうか。


今和泉の隼人松原から眺めた桜島

 それで、私は2007年2月11日の日曜日に指宿市の今和泉にある今和泉小学校(今和泉島津家の領主仮屋跡地)を見学に行くことにしました。その日は快晴で、鹿児島市内の自宅近くからも桜島がきれいに見えており、これなら今和泉の浜辺からも桜島の姿を肉眼でしっかりと見ることができるだろうと思ったからです。

今和泉島津家墓地の忠剛の
 その日のお昼頃、JRの鹿児島中央駅から薩摩今和泉駅まで普通列車に乗って行って来ました。薩摩今和泉駅は無人の駅舎ですが、有難いことにそこに「篤姫ゆかりの地 今和泉ミニマップ」が貼ってありました。それで、このミニマップを参考にし、まずは駅近くの今和泉島津家墓地を訪れました。

 同墓地内には五輪塔、宝篋印塔、家祠型墓等がたくさん並んでいましたが、ここにも「今和泉島津家墓地 簡易見取図」の掲示板がありましたので、それを参考にして篤姫のお父さんの島津忠剛のお墓を探し、このお墓を写真に撮らせてもらいました。

 なお、『指宿市誌』(指宿市、1985年10月)によりますと、「今和泉島津家墓地は第二二代吉貴の命令で宝暦七年(一七五七)建立の光台寺域内にあった」とありますが、光台寺は廃仏毀釈で廃寺となってしまったのでしょう、いまは今和泉島津家墓地しかありません。しかし、鹿児島城下の今和泉島津家の本邸の横にあった大龍寺も廃仏毀釈で廃寺となっています。幕末から薩摩藩の廃仏毀釈は徹底して実行され、藩内に一寺も残さなかったそうです。

 さて、今和泉島津家墓地を見学した後、次に海辺にある今和泉小学校まで行って、同小学校の裏手(東側)の隼人松原から桜島を眺めることにしました。隼人松原から眺めた桜島は、私が想像していた以上に大きく見え、海上にかなりの存在感を示していました。また、予想では海に向かってかなり左手に見えるだろうと思っていたのですが、実際には正面やや左手に見ることが出来ました。

隼人松原から眺めた桜島 島津今和泉家の別邸の石垣

今和泉島津家の別邸の井戸と手水鉢
 それで、隼人松原の桜島をデジカメで撮り始めましたら、篤姫関連の案内のボランティア活動をされている有志の会の高橋さんから声を掛けていただき、今和泉小学校内に残る今和泉島津家家別邸の井戸や手水鉢(ちょうずばち)を見せてもらいました。また、別邸に生えていたというクロガネモチ(現在は枯れてしまったそうです)の大きな幹の一部が校舎内に保存されており、それもグラウンドから窓越しに見せてもらうことができました。なお、このクロガネモチについては、宮尾登美子の小説にも「別邸名物の黒ガネモチの老樹」として出てきます。

 ところで、この有志の会の高橋さんは今和泉小学校の卒業生とのことでした。それで、私は今和泉と桜島の関係がずっと気になっていたので、高橋さんにそのことをお訊きすることにしました。「宮尾登美子の小説『天璋院篤姫』では、今和泉で育った篤姫にとって、桜島はなによりも懐かしい故郷の風景として描かれていますが、高橋さんにとっては桜島はどのような存在なんでしょうか」といった意味のことをお訊きしたのです。そうしましたら、少し首を傾げて思案された後、「そうですね、まずは隼人松原の松並木でしょうね。それから桜島ですかね……」と答えてくださいました。

 今回の今和泉行きでは、有志の会の高橋さんの親切な案内もあり、篤姫関連の珍しいものをいろいろ見ることが出来ましたが、やはり私にとって最大の収穫は、桜島が今和泉の隼人松原から想像していた以上に大きく見え、それなりの存在感を示していたことであり、宮尾登美子さんの小説での記述が実際の風景をそれなりに反映したものであることが確認できたことでした。

薩州桜島真景図
 なお、篤姫と桜島といえば、「南日本新聞」の2007年2月2日に載った「薩摩から大奥へ 天璋院篤姫の生涯」の最終回には、天璋院が所持していた「薩州桜島真景図」(徳川記念財団所蔵)のカラー写真が掲載されており、それにつぎのような解説が添えられていました。

「鹿児島市吉野町の磯地区から桜島を望んだ絵で、作者は薩摩藩の御用師柳田竜雪。養父斉彬が、もう二度と戻れないであろう鹿児島をしのばせるために持て行かせたものと思われる。
 画面下の二階建ての館は、今和泉家の磯別邸か。岸では毛せんを敷いて花見の宴が開かれている。右手は磯天神。よく見ると、近くに三人の婦人を従えた女の子が描かれている。ひょっとすると、幼い篤姫かもしれない。天璋院篤姫はつらく苦しい時にこの絵を見て、故郷を懐かしんでいたのだろうか。」

 この「薩州桜島真景図」のカラー写真が『天璋院 薩摩の篤姫から御台所』(鹿児島県歴史資料センター黎明館、1995年9月)の44頁にも掲載されていました。それで、この「薩州桜島真景図」の構図だけでもここに紹介したいと思いましたので、同書掲載の写真から私なりに作図したものが右に掲載した画像です。また、同書の解説によりますと、この絵を描いた柳田竜雪は、狩野勝川の門に学んだ幕末の島津家奥絵師で、号は拓梁斎とのことです。


西郷隆盛が斉彬から篤姫への密書の届役!?

 
宮尾登美子の小説『天璋院篤姫』に描かれた今和泉の別邸から見た桜島の風景は、作者が実際に今和泉の現地に立って見聞したものを踏まえて描き出したもののようですね。それでは、同小説で斉彬が篤姫に密命を与えたという話が出てくるのですが、これもやはり史実を踏まえて書かれたものなのでしょうか。

 宮尾登美子のこの小説では、江戸城に篤姫が入與する前日、薩摩藩の江戸の公邸で斉彬が居間に彼女を呼び、アメリカのペリーが浦賀に来航して以降、「日本国内はいま、攘夷開港をめぐって未曾有の危殆に瀕し、騒乱の状態にある」とし、
「そなたの任務が、単に御台所として大奥を統べるだけでなく、一歩も二歩もいでて将軍を補佐するという重大な意味を帯びてくる」とし、さらにもし将軍に世継ぎが生まれなかった場合、将軍に次期将軍として一橋慶喜を薦めるようにしてもらいたいと密命を伝える場面があります(講談社文庫版上巻、(235頁~236頁)。そして、さらに宮尾登美子のこの時代小説は、斉彬につぎのように言わせています

 「むろんそなた一人の力に頼るというのではない。始終当方と連絡を取り合いながら計画をすすめて行くのじゃが、さしあたっては当家庭役の西郷吉兵衛を働かせ、その報告を当家小の島に、小の島から幾島への密書として、常時届けさせる故、於篤はそれを十分承知の上で行動するように」

 小説だから斉彬から篤姫への密命の内容が生々しく書けるのでしょうが、勿論こんなことはどんな史料にも記録されていないだろうと私は思いましたから、斉彬が西郷吉兵衛を通じて篤姫に密書を届けさせたなんてことも史実としては確かめようもないことだろうと思いました。ところで、ここに出て来る[西郷吉兵衛」というのはあの西郷隆盛の父親の名前がそうですね。しかし、この小説の後半を読むと、「西郷吉兵衛と僧月照との入水」「これで幾島の許への吉兵衛の密書も途絶えてしまうのである」という記述があり、小説の西郷吉兵衛とは西郷隆盛のことのようです。実際、隆盛は父の死後にその名を継いで吉兵衛と名乗っていた時期があるようです。

 宮尾登美子の時代小説に書かれている斉彬から篤姫へのこんな密命の話、私は半信半疑で読んでいたのですが、な、なんと社団法人の鹿児島観光連盟のホームページ「観光鹿児島」中の「天璋院篤姫」紹介のページにもやはり西郷隆盛が島津斉彬の指示を受けて篤姫宛の密書を届けていたという記述があるではありませんか。その記述は「篤姫ゆかりの人物を知る」の中にあり、藩主斉彬に取り立てられて庭方役など側近として活躍するようになった西郷隆盛が「篤姫婚姻後は、次期将軍に一橋慶喜を推す斉彬の指示を受け、篤姫宛の密書を届けるなど大奥工作の要人として篤姫と関わる」としているのです。

 ウソー、ホントー、シンジラレナーイって感じですが、ところがどっこい、やっぱりこれは史実のようなんですよ。芳即正著『島津斉彬』(吉川弘文館、1993年11月)の篤姫と継嗣関係の箇所を読んでみましたら、
斉彬の篤姫への密命や西郷隆盛がそのために密使となったということはどうやら史料的に根拠のある話らしいことがわかりました。

 まず、斉彬の篤姫への密命説については、この芳即正の『島津斉彬』の196頁にそれに関連する文章がありました。そこには、斉彬が安政4年(1857年)2月から4月にかけて慶永(福井藩主の松平春嶽のことですね)宛てに書いた書簡の中につぎの様なことが書いてあったとしています。

「篤姫が江戸城にうつる前夜くわしく継嗣問題について申しふくめ、この話を将軍に直接話すことができるか、一橋と紀州のことを将軍はどう考えているのかをさぐるように話しておいた。だから切っかけがあれば篤姫も話をすすめるはずである」

 この書簡はきっと鹿児島県維新史料編さん所編集の『鹿児島県史料 斉彬公史料』に掲載されているに違いないと思ってさらに同史料集を調べてみました。そうしましたら、確かに同史料集の第3巻に載っている斉彬から安政4年3月15日に松平慶永へ宛てた書簡のなかにつぎのような記述を見つけることが出来ました。

 「
先便申上候通り、極内実は如何に候や難計候得共、一通り御内々之処ニては御間柄も宜敷、此上は御たん生を奉待候との事、大奥専ら申居候様子之処へ申出候ても、気請如何可有之哉、折角申出侯て不都合之節は、却て以後之障にも可相成と、小子は勿論藍山君同様に被存候間、(中略)其上御引移前夜にも委敷申上置、右様之御直話出来候哉、又一と紀之処等上之処如何に候哉、委敷御さくり被成候様申上候得共、未た何事も不被仰下候間、今少し時節見計ひ候方、却て可然哉に被存候」(『鹿児島県史料 斉彬公史料』第3巻、971頁)

 この斉彬の手紙によりますと、大奥からの情報では家定と篤姫の夫婦仲は良く、世継ぎが生まれるのを待っているそうだから、こんなときにこちらから継嗣問題であれこれ言って、それで不都合が生じたら、今後の障害になるのではないかと判断しており、また篤姫が江戸城に輿入れする前の晩、次期将軍の継嗣問題について、彼女から夫となる家定に直接話をすることができるないだろうか、また一橋慶喜や紀州の徳川慶福等のことについて家定はどう考えているのか、詳しく探ってもらいたいとそのときに要請しておいたという事実も書かれています。

 それから、西郷隆盛の密使説ですが、芳即正の『島津斉彬』の199頁によりますと、西郷隆盛は安政4年10月1日に斉彬から江戸詰めを命じられており、「西郷は篤姫あての斉彬密書を持参、藩邸老女小の島、篤姫付き幾(生)島を通じて大奥工作をおこなうが、なかなか成果はあがらない」と記述されています。

 また、芳即正『鹿児島史話』(高城書店、2006年9月)の第8章は「西郷隆盛と橋本左内―将軍継嗣問題の奇跡―」ですが、同章は関連史料を豊富に使って西郷の江戸での密使活動を詳しく紹介しています。それによりますと、西郷は安政4年(1857年)10月1日に島津斉彬から「鳥預庭方勤務のうえ江戸詰めを命じられ」、11月に鹿児島を出発して12月に江戸に到着、それから以降、継嗣問題に関して斉彬と御台所の篤姫との間で取り交わされる密書を篤姫付老女の生島(幾島)と薩摩藩の藩邸老女の小の島を通じて伝える任務に従事しています。

 例えば、芳即正の『鹿児島史話』のこの第8章「西郷隆盛と橋本左内―将軍継嗣問題の軌跡―」の207頁から208頁には、福井藩士の中江雪江が著した『昨夢紀事』に記載されている西郷からの安政4年12月14日の文書が紹介されています。それで、日本史籍協会叢書の『昨夢紀事』第二巻(東京大学出版会、1968年8月)で確認してみましたら、確かに同書の284頁から285頁に「十二月十四日西郷吉兵衛か持参せし薩摩殿より御台所へ進セられし御内書に吉兵衛か書取を添て奉れる薩摩殿の奥向より御台所のお附々へ指出せし文の返事なりとて吉兵衛より指出せし文」が載っており、そこに篤姫付き老女の幾島から薩摩藩邸老女の小の島への手紙が引用されていました。

 その幾島からの文には、篤姫は
「何も委細御承知遊ばされ」ているが、「兼ねても御内々御承知も遊ばされ候御一条の御事ながら、何事も御奥向にては、何の御事も御沙汰は遊ばさせられず候御事ながら、御ふくみ成らせられ候御事故、御都合次第こては、其の思召しにて成らせられ候御事故、何も宜しく先方へ御返答も在らせられ候様に、私よりも宜しく申し置き候様仰せ付けられ候」といったことが書かれています。篤姫としてはよく承知しているが、まだ将軍家定に伝える機会を得られないでいるようですね。

 それで、芳即正の『鹿児島史話』によりますと、「大奥工作が進展せず、御台所が直接将軍を説得する機会さえつかめないとの生島の密書に接し、この工作を諦め内勅降下による継嗣決定作戦に切り替えたようで」、そのため安政5年(1858年)3月上旬に京に向かうことになったようです。

 うーん、宮尾登美子の小説『天璋院篤姫』は、私が想像していた以上に史料をよく踏まえて書かれているようですね。大いに見直しました。


篤姫から西郷隆盛への嘆願書

 西郷隆盛が篤姫に斉彬の密書を届けていたのは史実のようですが、それから10年後には篤姫の方から西郷隆盛に徳川家存続の嘆願書を出しています。

 幕府軍が鳥羽伏見の戦いで薩長軍に敗れたとき、慶喜は多くの将兵を残して江戸に逃げ帰り、篤姫に和宮を通じて朝廷に嘆願書を出してもらうように頼み込みんでいます。宮尾登美子の『天璋院篤姫』では、江戸に倒幕のための東征軍が迫り来る中、天璋院や和宮が徳川の家名存続のための嘆願書を何度も書いて官軍側に送ったことが書かれてあります。また、梅本育子『天璋院敬子』(双葉社、1997年4月)でも、天璋院が和宮に嘆願書を書くことを強く要請するととに、自らも嘆願書を何度も書き、彼女の「東征軍薩摩藩の総大将西郷隆盛ほかへ宛てた手紙」が東海道を何度も上っていったとしています。宮尾登美子は、「こういう後宮女性の活躍は官軍の態度軟化に大いに影響、強硬の西郷でさえ徳川一門の安泰には同意を示すようになった」と彼女たちが果たした役割を評価しています。

 では、篤姫はどのような嘆願書を書いたのでしょうか。宮尾登美子本にも梅本育子本にも、残念ながらその具体的内容が紹介されていません。それで、他の文献にないかと探してみましたら、鹿児島県婦人会編『薩摩女性史』(鹿児島市教育会、1935年10月)のなかに天璋院が「薩州隊長人々」宛てに出した嘆願書が載っていました。

 この天璋院の嘆願書で特に興味深いのは、慶喜に対するつぎのような評価です。

 
「今更申も詮なき事ながら、一體一昨年大阪に於て昭徳院世を辭せられ候砌り、慶喜上京中と申、跡相續と相成候義、誠に止事を得ざる次第も候半かと、是迄黙止居候へ共、當人之容子から.兼々私之心底に應じ不申、旁相續之上は、以後國家の形勢、臣下之思はく等も如何候哉と朝夕心配致居候得共、女之事に候へば詮方無、只々神佛を拜し、無事を祈候のみに候。去ながら世嗣となりて、家之障りに成候程之事はよも仕出すまじと存居程之事は、よも仕出すまじと存居候處、案外之事にて、此頃いか様成る不忠致候哉」

 昭徳院(徳川家茂)が他界した後に慶喜が将軍になったことに対し、「それもやむを得ないことなのかと思ってこれまで黙視して来たが、慶喜の言動には前から心中納得出来ないことがあり」、いろいろ心配していたが、「将軍職を継いだからには、まさか徳川家にとって問題となるような不始末を仕出かすようなことはなかろうと思っていたのに、なんと思ってもいなかったような事態に至ったようで、最近どのような不忠をはたらいたのでしょうか」としています。

 それで、天璋院としては、「當人」(徳川慶喜のこと)がどのように処罰されようとそれは致し方ないとして、、徳川家存続だけはなんとしても認めてもらいたいとして、つぎのような嘆願を行っています。

 「當人はいか様天罰被仰付候ても是非に及ばざる事にて候へば、元より御欺き可申様も御座無事に付、是は可然御心得、只々徳川之儀は大切の家柄、此段幾重にも御組分、何れにも徳川家安堵致候様御所へ御取成之程折入而御頼申候。私事徳川家へ嫁し付候上は、當家之土となり候は勿論、殊に温恭院ましまさず候へば、猶更同人之爲當家安全を祈候外御座無、存命中當家萬々一之事出來候ては、地下において何之面目無之と、日夜寢食も安んぜず、悲歎致居候心中之程御察し下され、兎に角此度之事御取扱下され候はゞ、私共一命相すくひ被下候よりも猶重く有難き事、此上の悦御座無候。當時之形勢と申、人情と申、外諸侯において御頼程之きりやう之者も御座無、又可盡力も無之候得ば、御迷惑ながら其御方のみ相便り候外工夫も御座無候に付、呉々厚く御憐み被下、此艱難を御赦被下候はゞ□□其御先祖様御父様之御孝道は申に及ばず、徳川家へ之義も相立ち、御武徳御仁心此上なき義と存ぜられ候。」

 天璋院は、「徳川家に嫁いだ以上は、当家(徳川家)の土となるのは勿論のことであるが、温恭院(徳川家定のこと)がすでに他界しているので、いまは亡き夫に替わって当家の安全をただ祈るばかりである。しかし、自分の存命中に当家にもしものことがあれば、あの世で全く面目が立たず、そのことを思うと不安で日夜寝食も充分に取れず悲歎しています」と心情を吐露し、徳川家の存続を嘆願しています。

 なお、2007年4月25日にNHKの「その時歴史が動いた」が「大奥 華(はな)にも意地あり ~江戸城無血開城・天璋院篤姫~」を放映しましたが、同番組で巻物に装丁されている「天璋院の西郷宛の書簡」なるものが画面に映し出され、天璋院がその書簡の中で、「今、国家の形勢はいかばかりかと朝夕心配しております。私は女で無力ですが、徳川に嫁ぎました以上は徳川家の土となり、この家が安全に永らえることを願ってやみません。悲嘆の心中をお察しいただき、私の一命にかけ、何卒お頼み申し上げます」と嘆願していると紹介していました。

 このTV番組で紹介された書簡は、個人蔵で「所蔵元の連絡先等をお教えすることはできません」とのことですが、その書簡の写しは東京大学史料編纂所に保管されているそうです。しかし、内容から判断しますに、どうも前掲の鹿児島県婦人会編『薩摩女性史』(鹿児島市教育会、1935年10月)のなかに引用されている天璋院の嘆願書の内容と同じもののようで、「旁相續之上は、以後國家の形勢、臣下之思はく等も如何候哉と朝夕心配致居候得共、女之事に候へば詮方無、只々神佛を拜し、無事を祈候のみに候。(中略)私事徳川家へ嫁し付候上は、當家之土となり候は勿論、殊に温恭院ましまさず候へば、猶更同人之爲當家安全を祈候外御座無、存命中當家萬々一之事出來候ては、地下において何之面目無之と、日夜寢食も安んぜず、悲歎致居候心中之程御察し下され、兎に角此度之事御取扱下され候はゞ、私共一命相すくひ被下候よりも猶重く有難き事、此上の悦御座無候」の箇所を要約したものと思われます。

 ところで、この嘆願書はいつ頃出されたものでしょうか。『薩摩女性史』に掲載されている天璋院の嘆願書は、同文中に「日光御門主」に歎願を依頼し、すでに東海道に向けて出立してもらったということが書かれていますので、「日光御門主」すなわち輪王寺宮(後に還俗して北白川宮能久親王となる)が江戸に向かった慶応4年2月21日(1868年3月14日)以降に書かれたものと推定されます。

 また、「官軍隊長宛の天璋院嘆願書として知られる」この書状のことについて、寺尾美保著『天璋院篤姫』(高城書房、200年6月)ではつぎのような解説をしています。

 天璋院は江戸城から着の身着のままで離れる前に、一通の書状を西郷隆盛宛にしたためていた。官軍隊長宛の天璋院嘆願書として知られるその書状は、江戸城無血開城の約一ケ月前に西郷に届けられたとされるものである。
 国立公文書館に残る二通の書付「天璋院様附御年寄つほね初帰府之儀申上候書附」と「天璋院様為御使つほね東海道筋江被差遣候二付為差」によれば、天璋院付女中七人と御広敷番など男性五人が天璋院の書状をもって三月十一日江戸城を出て、十三日にもどったことがわかる。おそらくこの時、持参した書状が官軍隊長宛の嘆願書であろう。

 天璋院が
官軍隊長宛に書いた嘆願書をもった使者は慶応4年3月11日(1868年4月3日)に江戸城を出て13日に戻っているようですね。しかし、すでに同年の3月9日(1868年4月1日)に勝海舟から派遣された山岡鉄舟が新政府軍の本陣がある駿府で西郷隆盛と江戸城開城の条件について話し合いを行っており、さらに勝海舟自身が慶応4年3月13日(1868年4月5日)に江戸高輪の薩摩藩邸に赴いて西郷隆盛と会見しています。こうして新政府軍の江戸総攻撃は中止され、江戸城無血開城が実現しています。海舟はこのときの思いを日記につぎのように書いています。

 
「無偏無党、士道堂々たり.今、官軍都府に逼るといえども、君臣謹んで恭順の道を守るは、我、徳川氏の土民といえども、皇国の一民なるを以てのゆえなり。且つ、皇国当今の形勢、昔時に異り、兄弟牆にせめげども、その侮を防ぐの時なるを知ればなり。」

 この海舟の「皇国当今の形勢、昔時に異り、兄弟牆にせめげども、その侮を防ぐの時なるを知ればなり」という言葉は、中国の古典『詩経』の「兄弟鬩于牆、外禦其務」(けいていかきにせめげども、そとそのあなどりをふせぐ)を踏まえたものです。海舟は、自分たちが徳川家に仕える人間でありながら官軍に恭順するのは、「現在の日本の形勢は昔と違って同胞が争っている場合ではなく、外国からの侵略の危機に一致団結して立ち向かわねばならないことを認識しているからである」と言っているのですね。

 NHKのTV番組「その時歴史が動いた」の「大奥 華(はな)にも意地あり ~江戸城無血開城・天璋院篤姫~」では、天璋院の西郷宛の嘆願書が江戸城無血開城に大きな役割を果たしたと解説しているのですが、あんまり過大に評価するのはどうかなと思いますね。徳川慶喜が鳥羽・伏見の戦いで惨敗した後、部下を見捨てて江戸に逃げ帰り、新政府軍との徹底抗戦を主張する小栗上野介たちの意見を退け、慶応4年1月23日(1868年2月16日)に勝海舟を陸軍総裁に、大久保一翁(忠寛)を会計総裁に起用しています。この時点で慶喜は新政府軍への「恭順」の意思を固め、和平派の勝海舟たちに後を任せているのですね。

 勿論、旧幕府の代表となった勝海舟の和平路線に従って出された天璋院の嘆願書もそれなりの意味があったとは思いますが、やはり薩長も徳川も国内の内乱が激化することによる欧米列強の干渉、侵略を危惧し恐れたことが西郷隆盛と勝海舟の和平会談に繋がったのではないでしょうか。それに、天璋院はこの書簡でただひたすら徳川家の存続を嘆願しているだけですよね。

 しかし、これらの事実を追跡して調べていますと、徳川将軍継嗣に関連する斉彬から篤姫への密書を届けていたのが若き日の西郷隆盛であり、それから10年後に今度は篤姫(天璋院)が徳川家存続のために西郷隆盛に嘆願書を送っていたという史実には感慨深いものがあり、両者の不思議な縁(えにし)を感ぜざるを得ませんね。


篤姫の略年譜

 私は、宮尾登美子の『天璋院篤姫』はなかなか史実に忠実な小説らしいと思いましたので、この小説の記述に基づいて篤姫の略年譜作成を試みることにしました。なお、梅本育子の『天璋院敬子』(双葉社、1997年4月)も史実をよく踏まえて書かれた小説のようですので、この小説も参考にすることにしました。また、福岡中央テレビの「換暦」の機能を使って和暦の年月日を西暦に変換する作業も行うことにしました。

 それで、まず篤姫の生年月日を両書で確認しょうとしたのですが、なんともうこの段階で宮尾登美子本と梅本育子本の記述に違いがあることが判明しました。

 宮尾登美子本は「篤姫が生まれたのは天保七年の二月十九日で、この日は朝から大雪だったと篤姫はたびたびお幸の方から聞かされている」としています。ところが、梅本育子本には「島津家の係累の中の私領今和泉(指宿市)領主の忠剛の娘一子(天保六年生まれ)」と書いてあります。「換暦」で調べると、宮尾登美子本の天保7年2月19日は1836年4月4日となり、鹿児島の4月に大雪が降るとはとても思えません。

 また宮尾登美子本は、「嘉永二年の正月二日」に幼名が於一(おかつ)だった篤姫が父親の忠剛から「成人名 敬子」と書かれた奉書を受け取ったとし、さらに嘉永6年2月20日に「鶴丸城入城」、嘉永6年3月1日に島津斉彬と親子固めの盃が交わされて「篤子」と命名されたとしていますが、梅本育子本では、「安政三年七月七日をもって先年下向の折りに参殿した近衛忠熙の養女となり、このとき名も篤姫敬子とあらためられた」としています。また梅本育子本では、「嘉永六年二月一日、島津斉彬は忠剛の娘の一子を幕府へ実子として届け出、三月十日には篤姫と改名して今和泉邸から鹿児島城へ入れた」としています。

  ここても両書は全く違っていますね。それで芳即正『島津斉彬』(吉川弘文館、1993年11月)で調べてみましたら、「篤姫は安政三年七月七日近衛忠熙の養女となり篤君と改称、名を敬子(すみこ)とあらためた(敬子を篤姫の前の名とするのは誤り、『島津氏正統系図』『追録』)」とあります。そうしますと梅本育子本が正しいということになりますね。なお、『追録』とは『鹿児島県史料 旧記雑録追録』のことのようです。また、芳即正『島津斉彬』は、「十一月十一日江戸城御広敷入り、十九日結納、十二月十八日婚礼」としています。

 宮尾登美子本は講談社から1984年9月に出版されたものですが、梅本育子本はそれから12年以上後の1997年4月に双葉社から出版されています。この違いが梅本育子本の方により史実面での正確さを与える結果となったようです。

 なお、2007年6月になって新たに出版された寺尾美保著『天璋院篤姫』(高城書房、200年6月)は篤姫関連の史料を豊富に駆使して書かれたものですが、同書の著者は歴史資料館である尚古集成館の学芸員です。そこに宮尾登美子の小説『天璋院篤姫』についてつぎのような解説がありました。

 「宮尾氏の 『天埠院篤姫』 の新聞連載が始まった昭和五十人年二月には、鹿児島ではまだ鹿児島県歴史資料センター黎明館も開館しておらず(同年八月に開館)、資料の調査閲覧も今より困難だったと思われる。しかし、宮尾氏は鹿児島に調査に出向き、今和泉島津家の関係者や黎明館の前身である明治百年記念館建設調査室に所属する研究者らから聞き取り調査や関係史料の精査を行ったのだという。なるほど、『天埠院篤姫』には詳細な月日や人名が記載されており、おそらくこの史料とこの史料を見ているのだろうなと類推できる箇所も少なくない。けれども、女性の歴史はとにかく史料には残りにくく、また、当時は篤姫研究もほとんど着手されていなかった時期であり、全てを史実通りの設定にするというわけにはいかなかったようだ。それは当然だと思うし、歴史小説には許されるフィクションというものが存在する。
 とはいえ、『天埠院篤姫』が時代背景や設定を細かく描写しようと試みている小説だけに、読み手にそれが全て史実であるかのような錯覚を起こさせることもあるかもしれない。あるいは、歴史小説だから全て嘘であると決めてかかる人も中にはいるようであるが、全部が本当ではないが、全部が嘘でもないというのが歴史小説なのではないかと思う。」

 本当にその通りですね。宮尾登美子の史実調査のための非常な努力に心から敬意を表さねばなりませんが、また調査当時の史料的制約やフィクションも許される小説としての特徴も読者は忘れてはなりませんね。

 それで、『鹿児島県史料 旧記雑録追録 八』(鹿児島維新史料編さん所、1977年11月)で新たに調べてみましたら、同書の1頁に「斉彬公御子」として篤姫のことが「天保六年乙未十二月十九日生、母徳川宰相齋敦卿女」とあり、さらにつぎのような注記が加えられています。「篤姫實島津安芸忠剛女而、母島津助之氶久丙女也」。すなわち、後で誤解が生じないように、「実は島津忠剛の娘で、彼女の母は島津久丙の娘である」とわざわざ注を加えているのですね。これで、篤姫の生年月日は「天保六年十二月十九日」すなわち「1836年2月5日」と確定しておいていいでしょうね。

 
それで、前掲の『鹿児島県史料 旧記雑録追録 八』の篤姫に関する記録を調べてみましたら、「安政三年丙辰巳七月七日為近衛忠熙養女、賜諱敬子、稱篤君」「明治十六年十一月二十日逝去、法名天璋院殿敬順貞静大姉」ともありました。[安政三年七月七日」(1856年8月7日)に近衛忠熙の養女となり、敬子という名前を与えられたことや、さらに「明治十六年十一月二十日」(1883年11月20日)に死去したことが分かりますね。

 それから、 宮尾登美子本では、篤姫が鹿児島から江戸参府の旅に出たときに 「大阪までは海路を取ることになった」としていますが、これも史実と違っているようです。『天璋院 薩摩の篤姫から御台所』(鹿児島県歴史資料センター黎明館、1995年9月)には、篤姫が鹿児島から江戸までの旅程についてつぎのように紹介されています。
 
 「城下から西にむかい苗代川、川内を抜け出水で薩摩に別れを告げ、八代の海を左に眺めつつ北上し、熊本から北北東へ山鹿・久留米を通り小倉から中国路を経由して大坂、京の近衛邸に入ったのが十月二日。(略)京・宇治を見物し、伏見を経つ。十五日大井川を渡り、箱根を越えて鎌倉に詣で、二十九日江戸に入る。」

 また同書には、「明治十六年(一八八三)十一月二十日、かねてより療養中の中風が悪化し、千駄ヶ谷徳川邸の天璋院は四九歳の生涯を閉じた」とあります。なお、保科順子『花葵 徳川邸おもいで話』(毎日新聞社、1998年7月)によりますと、千駄ヶ谷の徳川邸では、天璋院の命日を「二十日(はつか)様」と呼んで、その日には彼女の好物の白インゲンの甘煮、あんかけ豆腐、きがら茶のご膳を食べ、また川村清雄が描いた天璋院の油絵が掛けられたそうです。
 
 以上のことを踏まえてながら、高城書店から新たに出版された寺尾美保著『天璋院篤姫』も参考にして作成したのが下の「篤姫略年譜」です。

                 篤姫略年譜
和暦 西暦 篤姫略年譜
天保6年12月19日 1836年2月5日 鹿児島城下に島津忠剛の娘一子として誕生
嘉永6年3月1日 1853年4月8日 薩摩藩主・島津斉彬の養女となる
嘉永6年3月10日 1853年4月17日 名を一子から篤姫に改め、幕府に実子届け提出
嘉永6年6月5日 1853年7月10日 鹿児島城へ入る
嘉永6年8月22日
  ~10月29日
1853年9月24日
  ~11月29日
鹿児島から江戸参府の旅に出る
安政3年7月7日 1856年8月7日 近衛忠熙の養女となり、篤君敬子と改名
安政3年12月18日 1857年1月13日 将軍家定と婚礼を挙げる
安政5年7月6日 1858年8月14日 家定死去
安政5年8月29日 1858年10月5日 落飾して天璋院と名乗る
文久2年2月11日 1862年3月11日 家茂と和宮の婚儀
慶応4年4月11日 1868年5月1日 討幕軍の江戸城入城で一橋邸へ移る
明治16年11月20日 1883年11月20日 天璋院、千駄ヶ谷徳川邸で中風症で死去

 篤姫は21歳で結婚し、わずか1年7ヶ月で夫が他界し、なんとまだ26歳で皇女和宮(家茂との結婚当時は16歳)に姑として対応しなければならなかったんですね。そして、30歳で江戸城を去り、まだ47歳の年齢でその波乱の人生を閉じているのですね。



小説『天璋院篤姫』を読んで


 さて、宮尾登美子の『天璋院篤姫』そという小説を読んでの感想なんですが、篤姫はやはり大した女性だと思いましたよ。江戸から遠く離れた薩摩藩から将軍家に嫁して来たのですが、いつしか複雑な人間関係が絡み合う大奥をしっかりと掌握するようになり、将軍の継嗣問題や皇女和宮との複雑な関係に心を煩わせながらもそれに耐え、激化する倒幕運動の流れに抗して徳川家を守るために力を尽くし、幕府倒壊後に徳川宗家16代となった家達から「もし徳川家に天璋院なかりせば、家は瓦解のさい滅亡し果てていたにちがいない」と評されたのですから、確かに優れた能力を持った人物だったに違いありませに。もしも彼女が現代に生まれており、若い頃から広い世界でものを見たり考えたりする機会が与えられていたら、その優れた潜在的能力を大いに開花させ、もっと有意義なことに力を発揮できたかもしれませんね。きっと職場で有能なキャリアウーマンとしてバリバリ仕事をこなし、さらに実業界で大いに辣腕をふるって経営者としても事業を成功させたことでしょうね。

 でもね、島津藩の分家のお姫様として生まれ育った彼女は、幕藩体制下の封建道徳が骨の髄までしみこんだ女性です。「幼にして父母に従い、嫁して夫に従い、老いては子に従う」という女三従の教えの優等生であり模範生です。ですから、実家は薩摩の島津藩でも、江戸の徳川将軍家に嫁いだ以上、「女は一旦嫁せば身も心も婚家先のもの、夫と家との繁栄を願うのが当然」と考え、薩摩を中心とした倒幕運動が激化しても動ずることなく、凛然として嫁ぎ先の徳川宗家のために力を尽くすことが出来たのだと思います。

 そんな篤姫の考え方を象徴するエピソードとして、宮尾登美子は『天璋院篤姫』で、戊辰戦争の火蓋が切られる直前、薩摩藩から天璋院の身柄を藩に引き取りたいと申し出があったとき、彼女に
「徳川家の人間は、いま危急存亡のときに当り、雑念を払って一筋にお家を守らねばならぬ。恐れ多くも神君が将軍職にお就き遊ばてしより二百六十年、この栄ある徳川家をいかなることがあっても傾かせてはならぬのじゃ」と語らせ、「薩藩が私をたって連れ戻そうとするならば私はこの場において自害する」とまで言い切らせています。

 実際、これに似たようなことはあったようで、岩波文庫の巌本善治編・勝部真長校注『新訂 海舟座談』の後注に載っている『海舟余波』でも、
「天璋院を薩摩に還すという説があったので、大変に不平で、『何の罪あって、里にお還しになるか、一歩でも、ココは出ません、もし無理にお出しになれば自害する』というので、昼夜、懐剣を離さない。同じ年のお附きが六人あったが、ソレがまた皆一処に自害するというので、少しも手出しが出来ん」状態になったとしています。それで、勝海舟が一人で説得に行ったそうです。海舟は、このとき天璋院に、「アナ夕方が、自害だなどと仰しゃっても、私が飛込んで行って、そンな懐剣などは引たくります、造作は御座いませんよ」と言い、さらにそれでも自害するようだったら「それはアナタ天璋院が御自害をなされば、私だって、済みませんから、その傍で腹を切ります、すると、お気の毒ですが、心中とか何とか言われますよ」と言ったので、天璋院たちも思わず「御じょう談を」と笑い出し、なんとか説得することができたそうです。

 宮尾登美子の『天璋院篤姫』という小説を読む限り、天璋院はとても身分格式を重んじ、なによりも家名の存続を大切にする女性です。そんな篤姫のなかに新しいものや進歩的なものを見つけ出すことは困難です。

 ですから、篤姫という女性の人間としての優れた資質には感心するのですが、その生き方に深く共感することはできませんでした。ただ、幕府が新政府に江戸城を明け渡し、篤姫が江戸城を去った後、月日が大奥時代の皇妹和宮との怨憎会苦の記憶を薄めさせたのか、「いままで江戸城の内のみで、お互いにお付き女中からの話ししか聞かないでいれば、しぜん思うことも狭まり、恨みだけが燃えてくるけれど、女ばかりの大奥から解放されてみれば、何やら胸もひろびろとひらけた気持がする」ようになり、後には和宮と親しく交流する姿が物語のラストに描かれていますが、そんな晩年の彼女の穏やかな生活が印象的でした。
 
 さて、こんな篤姫をNHK大河ドラマはどのように描こうとするのでしょうか。幕末の動乱期に確固たる信念を持って苦難に立ち向かい生き抜いた女性として描くのでしょうか。しかし、よほど上手いアレンジをしないと視聴者を引きつけられないでしょうね。鹿児島のためには、このドラマが成功して篤姫人気が大いに盛り上がり、観光客で鹿児島が賑わってもらいたいのですが、内容的にあんまりアナクロなものにはなってほしくないですね。