「今を生きる」      

 短期大学部情報文化学科1年 山田真美

 私が小学校6年生だった頃、母は乳癌を宣告された。

 母が医者から告知を受けた日の夕飯の食卓には、珍しく家族4人が家のリビングにそろった。母は、癌であることを私と兄にゆっくり少し笑いながら話した。私は、母が癌だといった瞬間から、「お母さんは死ぬんや」と思った。それでも、目の前にいる母はやつれてもいないし、痩せてもいない。むしろ太ってたし、テレビでみるがん患者さんとは違っていた。一般的に、癌イコール死と印象づけられている深刻な病気に母がかかっているとは信じられなかった。

母に聞いてみた。

「お母さんは死ぬの?」

「すぐには死なんよ」

 母は手術を受け、生きて我が家に帰ってきてくれた。しかし2年前の秋、再発をした。中学校の養護教諭である母は、闘病生活を送りながら再び復職をした。復職して間もない頃、「今、学校でどんなことをしているの?」と尋ねたことがある。すると母は、「生徒たちと熊本の菊地恵楓園に行く準備をしよるんよ。人権学習じゃ。あんたも行く!?」と相変わらず元気いっぱいに答えていた。

 その頃の私は、母が何をしようとしているのか知らなかったし、あまり興味もなかった。ただ、私が家に帰ると、駐車場にでっかい車が1台、たまに2台と、それとセットで小さな車が1台とめてあり、「何これ?」と不思議に思うくらいだった。

 私は母がどんな活動をしているのか知らないまま、高校を卒業し福岡で暮らし始めた。福岡での生活に慣れだした頃、母から手紙が届き、体がきついので養護教諭を辞める。そしてこれからは人並みに家のことをやって残りの人生を家族のために働きたい。と書いてあった。

母は、昔から学校はしんどい、と言って保健室登校?気味だったし、それに、私は小学6年生の頃から母が夜中に台所に立って洗面器を片手に持って吐いている姿を何度もみていた。その横にはいつも父が母の背中を左手で優しく何度もさすり右手は母がもっている洗面器の反対側をもっていた。二人で洗面器をもち、時々父が「大丈夫かえ?」と小さな声でいっていたのをみてきたので、これからは父とゆっくり暮らせるだろうし、母の体は母が一番よくわかっているだろうと思い、「ゆっくり休んで長生きして下さい」と返事を返した。

  今年の3月、母は28年間勤めた学校現場を退職し、私は鹿児島の大学へ行くため、家を離れた。

鹿児島で、思わぬ出会いが訪れた。ゼミのT先生が、たまたま母の知人だったことがきっかけで、私は毎日T先生年のゼミ室へ行くようになったのだ。先生は毎日、カラカラ笑いながら「あなたのかーちゃんまた載ってたわよー」と言って母のでている新聞記事をコピーしてくれたり、テレビ放送された母のビデオをいくつも見せてくれた。そこで私は駐車場にとまっていたあのでかい車のことや、生徒と一緒に熊本へ行ったことなどの意味が、やっと理解できたのだった。

 母は、私が幼なかった頃から、家庭に問題をかかえている生徒の面倒をみたり、他の先生と喧嘩しながらその子を守ったり、障害をもっている人々のお手伝いにいったり、仲良くなりたいがために手話の勉強したり、とにかくエネルギッシュだった。その積み重ねた経験で、最近は学校の生徒たちに自らのアイデアで考えだした「いのちの授業」を通して、自分が体験した癌の話をきっかけに、今を一生懸命生きている友人たちをゲストに招いて、死や病と向き合い、苦しさや辛さを引き受けた人の率直な言葉を何名もの生徒に届ける授業にチャレンジしていった。私が子どもの頃に見た駐車場のあのでかい車はテレビや新聞の取材の車、生徒と一緒に行った熊本は、いのちの授業の一環だったんだなと今になって思う。

 この頃、私は、「母はすごい」と思うようになった。

そんな矢先今年の五月のことだった。母の癌は、胸壁リンパに転移した。もう、手術はできないときいた。私は、京都にいる兄に電話し、これからのことを話し合おうと思ったのだけれど、電話の最中ずっと泣いてしまった。兄が「おかんはずっと辛いと思うで。俺らがしっかりせんと」といっていたが、電話をきった後も涙が枯れるほど泣いた。

 8年前、小学6年生だった私が感じた母の死の恐怖が再び私を襲った。手術ができない、と聞いたとき再発の時よりもっと、母が死に近い存在だと思った。

数日後、パソコンのメールを開いてみると、母から何通も画像つきのメールが届いていた。
それは、父が家の畑にあるさくらんぼをとり、そのさくらんぼを母がおいしそうに食べている画像だった。
その夜、母に電話をした。

 久しぶりに聞く母の声は変わりなく元気だった。私は何をいっていいか分からず黙っていると、両方の目から涙がでてきた。手術できない、と聞いた時から、あまり長くは生きられないんだろう。と思っていたし、8年間、日常の会話にさりげなくでてくる母の「私が死んだら」という言葉。「私が死んだら、このお茶碗はここにおいとくから忘れないように。私が死んだら、このビデオは・・・」

 私の8年間は、人の死を受け入れることのできる心の準備期間だったと思う。母が三度リハーサルをし、毎日の生活にもやがてくる大切な人の死を違和感なく受け入れられるように取り入れてくれたのかもしれない。私は、この8年間、母の前で泣いたことはなかった。でも、この日は8年間分泣いた。

 母は笑っていた。「まー休みになったら早く帰っておいで」と明るくいいながら。どっちが病人なのかわからないくらいだった。母が病気であることを感じさせない明るさがあるのは、乳がん患者会で、同じ病気で支えあっていた多くの友人の死を看取り、苦しみや痛さを知っていたからなのかもしれない。

 八月に入り夏休みになったので、私は、不安と楽しみをかかえながら、実家に帰った。今年の夏休みは、母と兄と私の3人で、思い出旅行をしようということになり、2週間の海外旅行を計画した。 荷物の準備もでき「さあ、フランスへ!」!と思っていた出発日の前日、突然祖父が亡くなった。

 2年前、くも膜下出血で倒れ寝たきりになっていた祖父は、急に肺炎をおこし、あっという間に逝った。誰にでもやさしく、いつも笑顔で接してくれた祖父は、菓子職人として、せいいっぱい働き74歳の人生を閉じた。遺影の祖父は、元気だった頃の笑顔で、今にもおしゃべりがはじまりそうな顔をしていた。こんな大人になりたいなと、私が憧れていた大人のモデルの一人が祖父だった。初七日を終え、私達はフランスへ旅だった。2週間の旅の間、どれだけの人に出会いどれだけの人に助けていただいたかは、ここに書ききれないが、一生の心に残るすばらしい時間を過ごした。

 母がよく言う言葉がある。

「人が死ぬということは、ご飯が食べられなくなり水がのめれなくなり、呼吸ができなくなることなのよ」 

祖父は私の目の前で、日々弱っていき、亡くなった。人は、こうして死んでいくんだよと教えてくれたような気がする。幼い頃からかわいがってくれた祖父は、ずっと私の中で生き続けている。よく笑い、よくしゃべり、よく働いた祖父。一緒にすごした日は、宝物だ。

 鹿児島に戻る2日前、私は初めて母の講演に同行した。テーマは、「いのちの授業をもう一度」

その日の母の服は上下おそろいのショッキングピンクのスーツだった。舞台に上がるなり、会場にどっと笑いの波を引き起こす。そして、息をつく暇もないほど、黒柳徹子さんのようによくしゃべる。その流暢な話ぷりに、次第に会場中の人々は引き込まれ、ハンカチ片手に涙を流していた。母は友達が病気で亡くなるまでどう生きたか、一緒にいのちの授業をつくりあげた先生は、今どんな闘病生活を送っているのか、そして、その授業を受けた生徒は、今をどう生きているかを話していた。

 私が、一番印象に残った母の言葉。

「人生で一番大切なものは、お金じゃないな。自分をさらけだせる友達がいるかってこと。あなたたち、今、そんな友達がいなくていいのよ。でも、人に優しくしていたらいつか巡り合うわよ」

 母の親友が亡くなる直前に、お別れのために病院にかけつけた中学校の生徒に贈った言葉だ。その人は、亡くなる瀬戸際まで、これからを生きる若い人たちにメッセージを伝えた。その言葉を母も一緒に聞き、今度は母が会場にいる人々に伝えた。きっと母も同じ考えなんだと思った。

 私は、大学生になって出会った先生によって、母が外でどんなに素敵な話や、行動をしているか知ることができた。母が話していることや行動していることは、本だけではなく、今を一生懸命生きている沢山の友達に出会ったことで学んだのだと思った。母が残された時間を、癌と付き合いながらも一生懸命生きているのは、出会いが心の支えとなっているからだと思った。

鹿児島へ戻るため駅に行く車の中できいてみた。

「さらけだせる友達は誰?」

「真ちゃん。一緒にいて一番自分らしくいられる。そういう人にたった一人でも巡り合えた人生はよかったなー」

意外な答えだった。

真ちゃんとは、私の父。今でもふたりは、真ちゃん、泉ちゃんと呼び合っている。

 この6月に20歳になったばかりの私の人生は後どれくらいあるかわからない。自分の「死」を考えるということは、「今をどう生きるのか?」を問われているような気がする。昨日の自分でない今日の自分。そして今日の自分から得たことを明日につなげ、一日一日変化しながら今を生きていたい。その変化は沢山の人と出会いながら。そして、たった一人でもいい大切な友達と巡り合えたらいいと思う。

 この夏、別れた祖父と、共に旅した母から学んだこと。それは、今を、一瞬一瞬を大切に生きること。自分を大切にして、私らしく生きていこうと思う。