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Vivid forum Column

戦後イギリスの経済政策

本日の講義は戦後イギリスの主な経済政策を回顧して、現在のイギリス経済に対する理解を深めるのが目的です。

 私は太平洋戦争が終った翌々年の1947年に小学校に入りました。小学校の時に先生から聞いた話はよく覚えているものですが、イギリスに関しては、国民は生まれてから死ぬまで生活を政府に保証されていると聞いて、その頃の日本は食べるのがやっとという時代でしたので、大変羨ましかったことを覚えています。

 ですから、長い間私の頭の中では、戦後のイギリスと言うと「福祉国家」とか「揺りかごから墓場まで」というイメージが焼きついていましたが、そのあと、恐らく1960年代以後と思いますが、イギリスというと「イギリス病」とか「老大国」という言葉がすぐ連想されるようになりました。

 世界中の人が羨ましがった福祉の先進国イギリスが老大国になり下がった原因の一つは産業の国有化にあります。つまり、戦後の労働党政権の政策によって主な産業が国営企業の独占にされたために、競争が十分行われず、設備の近代化が遅れました。その結果、イギリスは国際競争力を失って、貿易収支は大幅赤字になり、ポンドは切り下がり、国民一人当りの所得は主要先進国の中で年々順位を下げて、ドンジリになってしまったわけです。

 この状態は1970年代一杯まで続きました。1979年に保守党のサッチャーが首相に就任し、1990年に交代するまで11年の間に、「サッチャー革命」と評価されるような構造改革を行って、ようやくイギリス経済は甦りました。現在のイギリスは貧富の格差拡大とか犯罪の激増といった社会問題はありますが、経済に関する限り大陸ヨーロッパの諸国より優れたパフォーマンスを示しています。

 こうしたわけで、戦後イギリスの経済政策で最も重要なものは、「揺りかごから墓場まで」といわれる福祉政策、産業国有化政策、それに「サッチャー革命」の3つであろうと考えます。

 まず、福祉政策の説明から始めます。戦後の福祉政策の基礎になったものは1942年に発表された「ベヴァレッジ報告」です。ベヴァレッジ報告の要点は国民全員に最低限の生活水準(National Minimum)を保障することと、その財源を労働者と使用者の負担する保険料によって賄うことです。国民は保険料を負担するかわりに、収入の中断―疾病、失業、退職―が生じたときには期間の制限なく均一の手当てが支給されます。

 それまでは政府から何らかの支給を受けるには収入と資産の証明(means test)が必要でしたが、ベヴァレッジ報告はたとえ金持ちであっても無条件に手当てを受給できることにしました。つまり、ミーンズ・テストという恥辱(stigma)を通過する必要がありませんので、イギリス国民はこの報告を大歓迎し、ベヴァレッジ卿は当時の首相であるチャーチルに次いで人気のある人物になりました。現在、主な先進国はどこも退職年金や失業手当てなどの支給にあたってミーンズ・テストを実施しませんが、その考え方はベヴァレッジ報告から来ています。ベヴァレッジ報告にはその他に税負担による家族手当(児童手当)も含まれていました。

 ただ、当時イギリスは戦争中でしたから、ベヴァレッジ・プランの全項目実施には時間がかかりました。チャーチルが福祉の拡大に消極的だったこともあります。しかし、1945年の総選挙でチャーチルの保守党が敗れて労働党のアトリーが政権を取ってから、ベヴァレッジ・プランの内容が次々と実施されました。194875日に、国民全員が無料で医療を受けられる国民保健サービス(National Health Service)が実施され、同じ日に退職年金と失業保険を運営する国民保険法と貧困者を対象とする国民扶助法が施行されましたが、その前夜、アトリー首相はラジオを通じて、翌日から「福祉国家」が正式にスタートすることを国民に告げました。ここに「揺りかごから墓場まで」といわれる社会福祉体制が完成したわけです。

 次に、産業国有化政策について説明します。この政策を推進した労働党は社会主義政党でしたから、重要産業の国有化はかねてから主張していた政策で、労働党が政権を取った1945年から1951年の間に行われた電力、ガス、鉄道、道路輸送の国有化は、いわば当然の政策として、さしたる抵抗なしに実施されました。しかし、1951年の鉄鋼業国有化は激しい対立を引き起こしました。鉄鋼業は利益を上げており、競争力もあったからです。このため、鉄鋼企業107社が国有化されたものの、所有権が国に移っただけで、実質的な経営は民営時代のままでした。そして195110月の選挙で保守党が政権を奪い返すと、国有化が解除されることになり、1953年に民営へ戻されました。しかし、1964年に労働党が政権を取ると、1967年から再び国有化されました。また、自動車産業も1975年の労働党政権下で国有化されました。

  1951年から1964年、1970年から1974年の期間は保守党が政権を担当しました。保守党は福祉政策に関しては労働党の政策を踏襲しましたが、国有化政策には基本的に反対で、鉄鋼など一部の産業は民営化されました。しかし、この頃までの保守党は労働組合との対決を恐れて、抜本的な改革を行いませんでした。

 イギリス産業の多くは1950年代から70年代の間に国際競争力を失いました。国有化産業は赤字になれば国が税金で補填しますから、経営改善努力が不十分になります。製品は値段が高く品質が悪くても、他の国有化産業が買ってくれますから、設備を近代化して海外市場へ打って出ようという気持ちは失われます。ちょうどソ連の産業が資本主義国と競争しない間に大幅に遅れてしまったのと同じ現象が、イギリスの国有化産業にも起こりました。

 イギリスの産業が衰退したもう一つの理由は、労働組合が戦闘的で、企業経営や国民の利益を無視して、要求を勝ち取るまで長期ストを辞さないという対決姿勢を続けたことです。このため、イギリスの資本は国内で投資をしても無駄ということで、海外へ流出し、国内では製造業の設備投資が不足して輸出が減少し、輸入が増加して、貿易収支は悪化の一途を辿りました。イギリスの通貨ポンドは終戦直後1ポンド4ドル強だったのが、1970年代末には2.1ドルに下がりました。こうしたことから、イギリス経済はイギリス病とか老大国という見方をされるようになったのです。

 イギリス経済の衰退を決定的にしたのは第一次石油ショック後の1975年から1979年の労働党政権でした。不況とインフレが同時に進行するスタグフレーションを克服するために、労働党政府は労働組合の連合体であるTUC(労働組合会議)と社会契約(Social Contract)を結びました。これは政府が国有企業の労働者の雇用を守るかわりに、労働組合は賃上げの抑制に協力するというような内容でした。しかし、これには法的強制力がありませんから、労働組合は頻繁に山猫ストを行って石炭その他の生産をストップさせました。民心が労働組合と労働党政権から決定的に離反したのは1978年末から1979年始めにかけてのトラック運転手組合の長期ストでした。暖房用の灯油が配達されないので、国民は寒い夜を震えて過ごさなければなりませんでした。

 こうしたことが原因になって、19795月の総選挙で労働党は敗れ、保守党のサッチャーが首相に就任しました。サッチャー首相の政策は金融政策ではマネタリズムの採用、財政政策では所得・資産課税減税と付加価値税(消費税に相当)増税、財政支出削減、それに加えて国営企業の民営化に手をつけました。これらは新自由主義的あるいは保守主義的な改革です。ちょうどその頃、アメリカではレーガン大統領(1981年就任)、日本では中曽根首相(1982年就任)が「小さな政府」と規制緩和の政策を進めていましたので、市場原理尊重の保守主義が世界の流れになった観がありました。

 まず、金融政策ではインフレを抑制するために通貨供給量を目標とするマネタリズムの政策を採用しました。短期金利は20%近くまで上昇しましたが、1981年からインフレは鎮静に向かいました。

 財政政策ではケインズ主義的な総需要管理政策と決別して、公共支出と財政赤字の削減を目標に据えました。サプライサイドを強化するために所得減税(最高税率83%→40%)と資産課税減税を行い、税収の穴埋めは付加価値税の増税(8%→17.5%)によって行いました。また、1990年には固定資産税に代わるものとして人頭税(居住者が人数に応じて税金を払う)を導入しましたが、これは国民の大憤激を買い、保守党の政権維持が難しくなったため、サッチャーは同年11月の保守党総裁選に立候補せず、メージャーに首相の座を譲りました。

 サッチャーの最大の功績は国営企業の民営化を推進したことです。1979年のBP(英国石油)に始まって、航空宇宙、道路輸送、自動車生産、通信、航空、空港、鉄道、鉄鋼、水道、電力、石炭など殆ど全ての国有産業で民営化が行われました。国営時代はストが多く、労働生産性もヨーロッパの競争相手に比べて2分の1から3分の1という企業が多かったのが、民営化後はストが減り、労働生産性も向上しています。また、政府が放出した株式は従業員持株制度を通じて従業員にかなりの部分保有され、一般国民の多くも株式保有者となりました。政府も株式売却によって多額の財政収入を得ました。イギリス経済が活性化して、大陸のドイツ、フランスなどより経済が好調なのは、まさに民営化を中心としたサッチャー革命の成果と言えるでしょう。しかし、貧富の格差拡大、犯罪の激増などで社会不安が増大したのは問題です。

 サッチャーの後を継いだメージャー首相も、199718年振りに政権にカムバックした労働党のブレア首相もサッチャー路線を基本的に継承しています。ブレアは市場原理主義でもなく社会主義でもない第三の道を標榜していますが、その具体的内容は、産業国有化を労働党の綱領から外した他はまだ明らかではありません。しかし、サッチャー・メージャー政権下で後退した福祉を充実させることと、統一通貨ユーロへの加盟を目指す方向性ははっきりしています。■