半世紀ぶりの再調査―京都大学甑島学術調査団の資料寄贈―

視点・論点:No. 032010年02月
上村俊雄・大西智和国際文化学部教授

はじめに

このたび、鹿児島国際大学国際文化学部考古学ミュージアムは、京都大学大学院人間環境学研究科より、1964(昭和39)年に京都大学学術調査団が甑島において実施した調査資料の寄贈を受けた。資料は土器が中心であるが、獣骨や貝殻などの自然遺物、植物のさく葉標本、調査団が撮影した写真のフィルムまで含まれている。以下にこれらの資料が本学に寄贈されるに至った経緯、京都大学学術調査団が行った調査の概要、寄贈された資料の紹介と今後の構想や計画について述べたい。

1. 寄贈に至る経緯

京都大学での調査の様子事の発端は、年の瀬も迫った平成21年12月28日夕方に、京都大学大学院人間・環境学研究科の金坂清則教授からかかってきた突然の電話であった。故藤岡謙二郎京都大学名誉教授を団長とする「京都大学甑島学術調査団」が1961(昭和36)年に実施した調査の際に出土・採集した資料を寄贈したいので、鹿児島国際大学で収蔵並びに活用していただきたいという趣旨であった。晴天の霹靂とはまさにこのような場合を言うのであろう。

金坂教授によれば、京都大学教養部人文地理学教室の流れを汲む大学院人間・環境学研究科地域空間論分野では、藤岡教授が在職中(1945~1978年)に全国各地で採集された遺物(コンテナケース約60箱分)をこれまで収蔵・保管してきた。平成21年3月末をもって同分野の教員が定年退職すること等に伴い、上記遺物を保管してきた部屋を大学当局に返還することになったため、これらの資料を地元(博物館・資料館、埋蔵文化財センター、教育委員会、大学など全国15ヶ所)に返還する方針を決定したという。これを受け筆者らが相談の上、鹿児島国際大学博物館実習施設(考古学ミュージアム)に寄贈していただくこととした。

年明けの1月19日、京都大学へ行き、故藤岡名誉教授が収集された資料と対面した。約50年前の調査に伴う甑島関係の資料を見せていただいたとき、身震いするほどの感動であった。金坂教授をはじめ関係の教員や大学院生などの協力を得て梱包作業を行った。その作業中、先方から甑島の合同調査を実施したいと申し出があったが、これについては後述する。

2. 甑島調査団の研究成果

寄贈された資料の一部その成果は藤岡謙二郎編『離島の人文地理―鹿児島県甑島学術調査報告―』(以下 報告書と略記)にまとめられている。藤岡(以下敬称略)はその中で甑島を調査対象として選んだ理由を「甑隼人等の名で奈良時代の文献にその名が出ていること」、「甑島の位置が日本文化流入の場合の西南の門戸をなしている」としている。そして、この研究を通じて政府当局が日本の数多い離島の開発を考えてくれればよいという願望を吐露している。

調査団のメンバーはそうそうたる顔ぶれである。藤岡謙二郎をはじめとする地理学講座のスタッフはもちろん、その中には後に国立民族学博物館館長を務めた佐々木高明の名前も見られる。

調査の内容は多岐に渡り、まさに総合調査という名がふさわしい。報告書から抜粋しておこう。

地形と集落(藤岡謙二郎)、台風災害(服部信彦)、植生(新田あや)、遺跡(西田彦一)、手打発掘の弥生後期人骨(大森浅吉・松野茂)、島民の体位と栄養(指宿照久)、集落の機能と形態(桑原公徳)、民家(山崎俊郎)、「麓」の構造(船越昭生)、商業と生活圏(広田修)、交通・通信の発達と近代化(玉置哲郎)、人口と労働力(西村睦男)、漁業―零細な沿岸漁業とそこに生きる漁民―(島田正彦)、農業と土地制度(浮田典良)、村落社会―村落を構成する社会集団とその機能―(佐々木高明)、開発(鈴木公)

なお、考古学関係では2つの遺跡が発掘された。上甑島の里遺跡と下甑島の手打貝塚である。里遺跡からは住居跡のほか、甕や壺、高杯といった土器類や貝類・獣骨などが出土している。中央に3個の穴を穿孔された軽石製品は、外洋性の魚を獲るのに用いられたウキと推測されている。珍しいところでは鹿角に刻線が施された占い用の道具(卜占具)と考えられるものもある。手打貝塚の調査では多種類の貝、魚骨、獣骨が確認されている。土器は甕、壺、杯などがある。埋葬遺構も検出されており、いわゆる配石墓の特徴をそなえているとされる。頭蓋付近からは須恵器の壺が出土している。

報告書では離島の厳しさ、本土に比した開発の遅れが指摘されるものの、島の資本をいかに活用するかということが強調され、「離都向島」が今後の課題と説く。また、島は本土に従属的という考え方が当時の風潮としては強い中、島はそれ自身で独立した性格を持っていると述べるなど、随所に現在でも大いに参考になる視点がみられる。都市部や本土の基準が優れたものであり、離島もそうあるべきという、いわば上から目線のあるいは外側からの開発ではなく、島独自の資源を活用した内側からの開発こそ重要であり、これこそが現在の私たちが取るべき立場ではなかろうか。

3. 寄贈資料の概要と意義ならびに今後の計画

今回寄贈された資料はコンテナケースで約10箱分である。上述した里遺跡と手打貝塚から出土した考古資料が中心で、そのなかでも土器が多くを占めるが、石器も少量見られる。他に両遺跡から出土した獣骨や貝類なども含まれる。それ以外の資料には、調査中に撮影された様々な写真多数と甑島で採取された植物のさく葉標本などがある。

3.1 考古学研究における意義

筆者らが専門とする考古学だけでも、多くの調査や研究課題があげられる。考古資料、その中でもとくに高い比率を占める土器の資料化はまず手をつけるべき項目である。弥生時代から古墳時代にかけての甕、壺、高杯、鉢などさまざまな用途のものが含まれている。これらを図化し整理したうえで発表し、研究のための基礎資料として公表する必要がある。甑島の遺跡出土資料は、まだ公表されているものが少ないこともあり、その作業はひじょうに重要である。

土器には当時のさまざまな情報が反映されている。それらの形態や文様、用いられている技術などを分析することによって、甑島に生活していた人々と他地域との交流の実態をうかがうこともできる。また、土器に植物や昆虫の圧痕が残されているかどうかも確認する必要がある。圧痕が見つかり、さらにその同定が可能であれば、当時の人々が利用した植物やそれを狙っていた昆虫の種類から、そのころの日常的な食生活の一端に迫ることができるかもしれない。煮炊に使われていた土器の内面には、炭化物の残っているものも少数見られた。この成分の分析ができれば、当時の食生活の復元に、ここからも迫ることができる。ほぼ時期を同じくする甑島北部と南部の遺跡の資料であることから、粘土の組成を調べることによって、両地域の土器の動きなども明らかにできるかもしれない。

もちろん、これらの資料の可能性はそれだけには留まらない。貝類や獣骨などの自然遺物を用いた、当時の環境復元や現在の環境との比較などの研究も重要であろう。調査参加者が撮影した多くの写真は、50年前の甑島と現在の甑島の様々な状況の比較を可能にしてくれる。

3.2 共同研究

京都大学で資料を検討中に、金坂教授から鹿児島国際大学と交流したいとの申し出があり、願ってもないことと喜んで受け入れることになった。交流の第一弾として、50年前の甑島と現在の甑島とを様々な視点から比較研究してみるのはどうだろうかという話になった。今年の夏(8月ごろ)鹿児島国際大学の学生も参加して合同の調査を実施しようというところまで話が進展した。京都大学の学生との共同調査・研究は本学の学生にとっても良い刺激になるものと期待している。

おわりに

近年、大学が離島を対象に総合的な調査を実施したり事業を起こしたりする事例が注目されるが、藤岡が半世紀も前にすでにそのような取り組みを行っていたことは驚きに値することで、藤岡の思想は、私たちのこれからの調査・研究にとってもおおいに参考になる。これらの資料の現在的役割の模索、その活用法の研究に重点を置く必要を感じている。その成果は当然、甑島地域活性化の提言として発表されるものと考えており、今年の夏に実施予定の共同調査もそのような視点で臨みたい。

ところでこの視点は必ずしも島に限ったものではない。たとえば鹿児島国際大学を例にあげると、このキャンパスを含めた近隣を島(フィールド)とみなすことができるのではなかろうか。ここにある資源を調査し、その可能性を引き出して地域の活性化につなげる方策を研究する。甑島でのこれからの実践例を梃子に、さらに研究の場を広げることが可能だろう。

最後に本学にも同様の総合調査の長い実績があることはぜひ紹介しておきたい。鹿児島短期大学付属南日本文化研究所では30数年にわたって南西諸島を中心としたフィールドにおいて様々な分野の調査・研究を実施し報告書や叢書にまとめている。この地域の研究の基礎資料として重要な位置を占めているが、これらについても、さらなる応用的な―未来に向けての―活用が可能なはずである。

参考文献
鹿児島大学法文学部考古学研究室編 1985 『中町馬場遺跡』里村教育委員会
鹿児島短期大学付属南日本文化研究所 1975~2001 『南日本文化研究叢書』1~26
鹿児島短期大学南日本文化研究所 1968~2003 『南日本文化』1~35
川口雅之・黒川忠広ほか 2004 『中町馬場遺跡Ⅱ』里村教育委員会
藤岡謙二郎編 1964 『離島の人文地理―鹿児島県甑島学術調査報告―』大明堂

 

 

 

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