学びへの見事な師弟の姿
声楽レッスン参観
「このまえよりずっといい・・音はよい・単語にもアゴーギグ(長短の動き)・・とってもよい」「気持ちの問題・・詩のことばは寂しいが、音はクレシェンド」「呼吸の創造による内容の創造」「子音を活かす・・前の人の背中にツバをとばすぐらいに」「そこで(あなたは)何を想像してるの?・・食べてしまいたいぐらいのいとしい気持ち・・自分のこれまでの人生から(最大限)移入できること(感情)・・しかし偉大なゲーテの詩であることを忘れたらダメよ」「フェルマータ・・数えないこと・・自由に・・音響が消えるまでのばす(伴奏者に)」「気持ちが変ってから『音』にかかる」
これは1月21日、声楽の客員教授中村智子先生のレッスンを傍聴したときの、メモの一部です。昨年来の約束がかなえられて、この日は出かける前から気持ちはわくわくしていました。
レッスンを受けるのは専攻科の女子学生、それに伴奏の女子学生。わたくしがレッスン室に入ったとき、二人は「予習」の最中です。どのようにレッスンは始まるのか、開演前の緊張を室のかたすみで味わいました。
教わっている者の教わっているこころの状態は、霧の中を歩くようなものでしょう。明るい霧や暗い霧がありますが、いずれにしろ、周囲の像(かたち)は見えず、見えたとしても一部であったり、幻像であることさえあります。
霧のかなたに声が聞こえ、それに導かれてとりかこむ霧をあらためて見回す。教える者の務めは、霧を歩く者に霧の外から声をかけて誘導すること。声の誘導が成功するには、自分も同じ霧をさまよったという共感と、その後もいくつかの霧の状況をくぐりぬけているという自負が、教える側になければならない。文頭に紹介したのは、そのような呼びかけのいくつかです。
中村先生はレッスンの間、自ら数小節を歌って範を示すことはありますが、それはほんの2、3回で、あとはことば、つまり霧の中に向かって発せられる声です。
泳ぎ方や自転車の乗り方を教えるのが難しいのは、その「わざ」の核心を「ことば」で伝えることができないからといわれます(M・ポラニの暗黙知)。それでも「ことば」で教えねばならないから、比喩(たとえ)が多くなります。そしてそのたとえが「具象的」でなければ、霧の中には届かない。もっと正確にいえば、たとえによる呼びかけと誘導の力です。
声にうながされてレッスンの学生は、椅子に座る先生の方を向き、同じ数小節を歌い直す。このとき学生の眼に映るのは、呼びかけによりかたちと明るさを変えた霧あるいは霧の中にのぞく出口でしょうか。
彼女の眼には、そのあいだじゅう彼女と一緒に、「黙って」しかし声以外のすべてを傾けて「熱唱」している先生の姿は映っていない。それはまるで同じ霧の中を、見えない同伴者として歩いている姿です。素晴らしい風景でした。
